Defining Computationally Minimal Art (Or, taking the “8” out of “8-bit”) by viznut (Ville-Matias Heikkilä)

* This article is written in both English and Japanese.

私たちがチップチューンやピクセル・アートと呼ぶことのあるアート・フォームを、原理的に考察したviznut(Ville-Matias Heikkilä)/PWP(Pers’ Wastaiset Produktiot)のエッセイ「演算的ミニマルアートを定義する(あるいは、「8-bit」から「8」を引く)」の翻訳を公開します。同じ作者による「デモシーンを文脈のなかで捉える」では、時評的な性格が読みやすさにつながっていたのと比べると、かなり思弁的かもしれませんが、私たちが漠然と「8-bitカルチャー」として捉えているものを検討する上で重要な文献だと考えます。

I published the Japanese translation of the essay “Defining Computationally Minimal Art (Or, taking the “8” out of “8-bit”)” by viznut (Ville-Matias Heikkilä)/PWP (Pers’ Wastaiset Produktiot), which is focused in principle on certain art forms can be called chipmusic and pixelart. Compared with his “Putting the demoscene in a context” that a kind of commentary on current events led to its readability, this essay is slightly speculative, but I’m convinced that it is an important literature for exploring a sort of “8-bit culture” which we vaguely call.

・原文 / Original text

Defining Computationally Minimal Art (Or, taking the “8” out of “8-bit”)” (2010) by Ville-Matias Heikkilä a.k.a. viznut/pwp

・翻訳 / Japanese translation

Ville-Matias Heikkilä a.k.a. viznut/pwp「演算的ミニマルアートを定義する(あるいは、「8-bit」から「8」を引く)」 (2010) [PDF]
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※上記のOneDriveとGoogle Drive、どちらのリンク先からでもドキュメントの閲覧、ダウンロードが可能です

演算的ミニマル・アートのためのノート

答えを形にする技術の姿を理解することによって初めて、人は一層深い洞察を得る。彼は、重要なのは結果だけでなく、プロセスもまた同様であることに気づく。答えの形ばかりでなく、答えを導いた経路の形の重要さにである。 ――クリストファー・アレグザンダー「形の合成に関するノート」(1964)

「昨今、「ローテク」や「8-bit」は至るところに存在する」――このような書き出しで始まるviznutのエッセイが発表されたのは2010年だが、その状況は今でも変わっていない。意識的な選択であるかどうかを問わず、スマートフォンでは低解像度のビットマップ・スタイルのゲームがリリースされ続けている。エミュレータとROMイメージを通じたオールド・ゲームの再評価と再解釈(レヴュー、ダンプ、加工、ハッキング、プレイ動画、TAS等々)という見過ごせない要因に加えて、日本でこの種のゲーム(もちろん、リヴァイヴァルとしての)を先導してきたのは、 おそらく開発室Pixelnigoro、そしてBusterである。とりわけ前二者の洞窟物語(2004)とLa-Mulana(2005)がこの十年間、日本のみならず西欧でも想起され続けている事実は、「ローテク」や「8-bit」の遍在性の一端を物語っている。任天堂等のゲームのキャラクターに基づいたクロスステッチ制作も途絶えず、今年は本も出版された(大図まこと『GAME & STITCH! クロスステッチで楽しむレトロゲーム』)。

「超魔界村」や「DOOM」等往年のゲームを想起させるグラフィックを散りばめた上坂すみれの「パララックス・ビュー」のミュージック・ヴィデオ(大月壮監督)は、視覚的・心理的効果においてのみピクセル・アートを参照しており、viznutの述べる、ローテク美学の「第二段階」の例と言えるだろう。つまり、「この段階では、ピクセルで構成されたグラフィックやチップ・サウンドはただあるがままに享受されるだけで、歴史的な慣習は全く無視される。一部の人たちにとっては、表面上の新しさやもの珍しい価値ですらある」。ミュージック・ヴィデオの制作者たちにはおそらく、過去のゲームに対する造詣や愛がある。だが、にもかかわらず、それが映像作品として公開された時、表層的効果が漠とした感情(センチメント)と共に自明のもののように扱われる――これこそが問題である。より率直に言えば、私たちは過去のゲームの2Dグラフィックやサウンドトラックのコーパスへのフェティシズムを通して、陰に陽にそれに対する所有を自然化してきている。

デモシーンとは遠く離れたところで、日本で20年以上、ビットマップという形式を表現の核に据え続けているアーティストが存在する。1990年から96年にかけて、MacintoshやNEC-PC88VA2のペインティング・ソフトを用いて「バカCG」(Silly CG)という一連の作品を発表していた中ザワヒデキである。中ザワはそれに先立つ(少なくとも)1988年から、後者のマシンでCG制作を試みている(こちらを参照)。今でこそ、ビットマップ形式に固有のジャギーは「趣味」として捉えられているが、彼は当時からグラフィック・ソフトのもう一つの形態であるベクター形式と対比しつつ、そこから作品の形式を導きだした。これはPWPがANSIやFMチップやビープ音をメディウムにした点と、方法の上で類似している。だが「マウスを握る手という肉体のヘタ性」(「その後のバカCG―HISTORY OF BAKA CG―第6回」)の露呈を試みた中ザワのアプローチは、最適主義とは矛盾している。それでも色彩と形態のユーモアには、共通する点もあると感じる。また、デモシーンのオーセンティシティと交差する点として、彼はフロッピー・マガジン「JAPAN ART TODAY」(1992年創刊)のように、フロッピーを作品の配布媒体として選択し、「複製・改変の自由」さえ認めていたことに触れておこう。

Digital Nendo [Clay], the world’s first bitmap 3D software for Mac and Win released in 1996. Image Source: http://www.aloalo.co.jp/nakazawa/old/nendo/octopus.gif

「画材の発明それ自体が芸術である」と考える中ザワは、バカCG以降、2D空間の画像制作の方法を3D空間に応用し、世界初の「ビットマップ3D」ソフトウェアである「デジタルネンド」を考案(「発案・ソフトウェアデザイン・監修」)し、1996年にリリースした。またその過程で、彼は日本とアメリカでビットマップ3Dに関する特許取得手続きに着手し、最終的には日本で3件、アメリカで2件の特許を取得した。現在の私たちにとって外観の面で「デジタルネンド」から「Minecraft」を連想するのは難しくないだろう。彼は繰り返し「Photoshop」のようなビットマップ形式のソフトウェアと「Illustrator」のようなベクター形式を対比させているが(中ザワヒデキ「視覚芸術史における「デジタルネンド」誕生の意味」)、これはviznutの思考のプロセスに光をあてるように思われる。エッセイの文脈に沿えば、Jürgen Schmidhuberの低複雑性アートは後者である。それに対してviznutが演算的ミニマル・アートとして挙げる例は前者に基づくものが多い。二つの原理が完全に棲み分け可能であるとはいえないが、だが一方が他方に還元されない点は強調してよいだろう。ここで別の文献を引用することによって、二つの形式の特質を明確にしよう。

「ビットマップ画像を拡大していくと、輪郭が実は線になっておらず、ギザギザしていることが見てとれる。解像度が低いほど大きく目立つ、ジャギーと呼ばれるこのギザギザを考えればわかるように、むしろそれは図形化を崩すものだ。つまりそれはタペストリーと同様に、幾何学に還元することができないのである。ビットマップ形式の画像データが、ベクター形式の画像データより重いのは、部分の配分を決める全体があらかじめ存在するため、画像自体に「スケール」が内包されており、いわばその時間と空間、焦点の連続性が質量としてデータ化されているからだ。
それとは逆にベクター形式は特異点だけを数値化するため、あらかじめフレームのサイズという概念をもつビットマップ形式よりも、はるかにわずかなデータで、画像を表示することができる。いくら拡大/縮小しても、特異点だけで図は表示されているため、その「見え」は変わることはない。要するにストラクチャー(構造や関係)だけを取り出し量を消去しているがゆえに、その画像はスケールを内包していないのだ。いいかえればベクター形式は、図形であり幾何学である」(高嶋晋一+Notation Research「美術の設計」『芸術の設計』岡崎乾二郎編著、フィルムアート社、2007年)

私たちがviznutのエッセイを読む上で気をつけなければいけないことがあるとしたら、タイトルの示す通り、それが専ら「定義すること」に関わるものであるということだ。この文章はある認識の、美のパタンを教えてくれるが、一方で各局面で決断を下すデザイナーと文脈が意図的に省略されている。そのため、クロスステッチやオルゴール、自然の生物等を通して演算的ミニマル・アートを自然化してしまうおそれがある。決して自明視することなく、具体的な文脈のなかで彼がいかに自らのスタイルを創出し、磨きあげてきたかは、「countercomplex」で見られる著述の作業からも明らかである。作品によって産出される効果を全て統御する作者という観念や、美を純粋に計算可能なものと見なし、一切の判断をいくつかの方程式あるいは自然のモデルに準拠する作者という観念があるかもしれない。だが演算的ミニマル・アートは、そうした観念をもとに現実世界では展開しないと考える。私たちは散文的な状況のなかで様々な問題に対処する。ということは、人間とコンピュータの間の不確定な要素(私たちはそれらを問題、障害、偶然、あるいは抵抗と呼ぶことがあるかもしれない)こそが制作の動因になっているのではないか。「デモシーンを文脈のなかで捉える」においてviznutが相互性に注目していたのも、これと無縁ではないはずだ――「というのも、私の考えでは、デモシーナーの核となる創造的理念は、もっと高いレヴェルにまで上手く外挿され得るからだ。(たとえば、デモ・プラットフォームとしてのホモ・サピエンスという思想について考えてみること)」――身体という、手に負えず、人のあずかり知らない力。コンピュータ演算によりシミュレートされたアルゴリズムを、人間の身体で実現することに基礎を置く三輪眞弘の「逆シミュレーション音楽」は示唆的な例である。

私たちが「ローテク」や「8-bit」に関わるのは、扱いやすさや近づきやすさばかりでなく、それが手に負えないためでもある。私たちはシステムの複雑性をゼロに近づけようとする。だが、完全にゼロにはならない。そのため結果の類似性とヴァリエーションが生まれるとも言える。1行コードのもたらす結果の分析と再文脈化を行うプロジェクト、10 PRINTや、viznutの1行ミュージック・プログラムに関する試み(「Some deep analysis of one-line music programs.」を参照)はその好例である。viznutが述べる演算的ミニマル・アートの定義を、私たちは再認のためのフレームとみなすのではなく、制作者とオーディエンスの観点からそれらを特定のプロセスに対して実際に「適用する」ために用いることができるように思われる。

翻訳を快諾して下さったviznutに感謝したい。

Note for Computationally Minimal Art

By first understanding the shape of the technique which produced the form of the result, man found further insight. He found that it is not only the result which is important, but the process too. Not only the form of the results, but the form of the path which led to them. — “Notes on the Synthesis of Form” (1964) by Christopher Alexander

””Low-tech” and “8-bit” are everywhere nowadays.” – this viznut’s essay which opened with the sentence was published in 2010, and even now the situation is same as before. Low-resolution bitmap style games have been released on the smartphone regardless of whether they are used with conscious selection. There is a factor that we revaluate and reinterpret via various emulators and ROM images (i.e. review, dump, processing, hacking, Let’s Play, TAS, etc.) in the first place. In addition to it, which is impossible to overlook, perhaps, this kind of games (as revival, of course) have been taken the lead by the following creators in Japan; Studio Pixel, nigoro, and Buster. The fact that especially “Cave Story” (2004) and “La-Mulana” (2005) by the first two have been remembered by the Western as well as Japan during 10 years proves a part of the ubiquity of “low-tech” and “8-bit.” Also people constantly make cross-stitch derived from such as characters from Nintendo’s video games, and a related book was published this year (“GAME & STICH! Playing Retrogames by Cross-stitch” by Makoto Oozu).

The music video of “Parallax View” by Sumire Uesaka (directed by Sou Ootsuki)is studded with pixels which remind us of old video games like “Super Ghouls ‘N Ghosts,” “DOOM,” and so on. It refers to pixelart only aimed at visual and mental effect, so it is perhaps an example of “second-phase” of low-tech esthetics as vinut describes. In other words, “where pixellated graphics or chip sounds are simply enjoyed the way they are, totally ignoring the historical baggage. There is even an apparent freshness or novelty value for some people.” The creators of the music video probably have deep knowledge and love for old video games, but nevertheless, superficial effect is obviously treated with a vague feeling of sentiment when it has been published as an image product – that’s the problem. More frankly speaking, we have been naturalizing the ownership of corpus consisted of 2D graphics and soundtracks on old video games implicitly and explicitly along with fetishism of them.

Sumire Uesaka – Parallax View (Music Video), directed by Sou Ootsuki

Far away from the demoscene, there is an artist who has deeply focused on bitmap format in Japan more than 20 years. He is Hideki Nakazawa, who once published a series of works called “Silly CG” from 1990 till 1996 using painting software on the Machintosh and NEC-PC88VA2. He had tried to produce CG with the latter machine (at least) from 1988 (see this timeline). We today see jaggies inherent in bitmap format as a “taste,” but he elicited his own form of works from it compared to another form of graphics software, or vector format from back then. This shares similarity with that PWP used ANSI, and FM chips and beeper as medium from the aspect of method. The Nakazawa’s approach, however, conflicts with optimalism since it attempted to expose “unskillfulness of the body of holding a mouse with human hand” (“HISTORY OF BAKA [silly] CG Part 6”). And yet, it seems to me that they have humor of color and form in common. Also I have to mention that he had selected floppy disk as distribution medium and even permitted “free for reproducing and modifying” on such as “JAPAN ART TODAY” (first published in 1992). This intersects with the ideas of authenticity in the demoscene.

Nakazawa thinks ”the invention of tools of art itself is art.” After “Silly CG” he applied this way of creating pictures in 2D to 3D, and then he invented the world’s first “bitmap 3D” software called “Digital Nendo [Clay]” (“original idea, software design, and supervision” by him), which was released in 1996. He also began to pursue patent on bitmap 3D format in the process, and acquired three patents in Japan and two in U.S. in the end. It is not difficult for us living now to associate “Digital Nendo” with “Minecraft” in the aspect of appearance. He has repeatedly contrasted bitmap-based software such as “Photoshop” with vector-based software such as “Illustrator” (“Significance of “Digital Nendo” in Visual Art History” by him). It seems that this can illuminate viznut’s process of thinking. Following the context seen in the essay, Jürgen Schmidhuber’s Low-Complexity Art is based on the principle of the latter. In contrast, some examples of Computationally Minimal Art he gives are often based on that of the former. Of course, two principles can not be necessarily completely separated, however, it would be safe to emphasize that one cannot be reduced to the other.I would like to clarify each essence of two formats by quoting the following sentences from another literature here.

Demonsrating “Digital Nendo” on the Mac in 2009

“When enlarging a bitmap image, we can see that the outline isn’t actually a line, but is notched. As evidenced by considering the notched called jaggy which the lower resolution, the more it is standing out, it rather makes figuring disorder. In other words, it cannot be reduced to geometry same as tapestry. The image data in bitmap format is larger than that in vector format, because the image includes its “scale” in itself due to there is the whole which locates distribution of the parts in advance, as it were, because the continuity of its time and space, and of focuses is digitized as mass.
To the contrary, as vector format digitizes only singularity it can show images in much more smaller data size than bitmap format which has a concept of a frame size in advance. However the image is zoomed, the “appearance” stays constant since it is displayed only with its singularity. In short, it doesn’t include its scale since the structure (construction and proportion) is only abstracted and the quantity is cleared. In other words, vector format is a figure and geometry.” (Shinichi Takashima + Notation Research: Articulation of Art: Articulations of Arts. Eds. Kenjiro Okazaki, Film Art, 2007)

If we have that needs to be cared when reading viznut’s essay, it entirely relates to “defining” as shown by the title. This text tells us a certain pattern of cognition and beauty, while it is purposefully skipped a designer who makes decision at each phase, and context. So it could lead to naturalize Computationally Minimal Art thorough cross-stitch, music box, natural life forms, and so on. His writing work such as his blog “countercomplex” specifically shows how he has created and refined his own style in specific contexts without presupposing it in any way, though.Probably there are the idea of the creator who can completely control every effects produced by his works, and another idea of the creator who regards beauty as purely computable thing and entrusts all his decision to some equations or models in natural. But I think that Computationally Minimal Art doesn’t develop in the actual world on the basis of these ideas. We deal with various problems in prosaic situation. That is to say, uncertain elements (we can call them problems, obstacles, accidents, or resistance) become drive of creation. What viznut remarked interactivity in “Putting the demoscene in a context” is not unrelated to this – “since, in my opinion, the core creative ideals of the demoscene can very well be extrapolated to higher levels (for example, think about the idea of “Homo Sapiens” as a demo platform)” – the body, that is out of control and unperceived force. For one thing, “Reverse-Simulation Music” generated by Masahiro Miwa is suggestive, which is based on realization of computationally-simulated algorithm on human body.

Masahiro Miwa explains what Reverse Simulation Music is.

We have had contacted with “low-tech” or “8-bit” because of not only usability and accessibility, but also beyond control.We try to reduce the complexity of the system to zero, but it doesn’t entirely approach to zero. We would say that similarity and variation of the results are brought to us due to that. A project called 10 PRINT which is aimed at analyzing and recontextualizing the results caused by one-line code, or an attempt on one-line music programs by viznut (see “Some deep analysis of one-line music programs.”) are good examples of that point. It seems that we can use the definitions of Computationally Minimal Art which viznut describes not to consider as frames for recognition, but to “apply” actually to specfic processes in terms of audience and creators.

I appreciate viznut, who gave permission of translating his writing.

countercomplex: viznut’s blog in progress

another his portal

pwp – real lamenezz since 1994

NAKAZAWA HIDEKI’s homepage

Detabase of Hideki Nakazawa’s Works

References

中ザワヒデキ『芸術特許』(3331 Arts Chiyoda、2010年)[Hideki Nakazawa: Art Patents. 331 Arts Chiyoda. 2010.]
石井香絵『中ザワヒデキの美術』(トムズボックス、2008年)[Kae Ishii: Art of Hideki Nakazawa. Tom’s Box. 2008.]

*アレグザンダーの引用は『形の合成に関するノート/都市はツリーではない』(鹿島出版会、2013年)所収の稲葉武司訳に基づき、一部改訳を行った。

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