聴き取りコモドール・ジャパン史

はじめに

10月某日、とある縁から、コモドール社の日本法人コモドール・ジャパンにいらっしゃったマニュアル担当の家田氏と設計担当のN氏に当時のお話を聞く機会を得ました。お二人とも、コモドール・ジャパンがコモドール64およびその後継機種の開発・製造を行っていた時代を記憶されている方です。入社当時は30歳を前後するご年齢だったことをまず、最初にお聞きした時点で、私はふかく感慨の溜息をつきました。

これはその時、お二人よりお聞きした内容を、主には、2010年に発売されたBrian Bagnallによる創業から1984年までのコモドール社の軌跡を追った浩瀚なCommodore: A Company on the Edgeに依拠しつつ、またその時の溜息を反芻しながら再構成したものです。Brian Bagnallは1972年生まれという若さですが、2005年にはこの本の元になったOn the Edge: the Spectacular Rise and Fall of Commodoreを世に問いコモドール研究の先頭にたちました。日本語では彼の別の著書『マインドストーム・プログラミング入門―LEGOでメカトロニクス/ロボティクスを学習する』(原題はProgramming Lego Mindstorms with Java)がCQ出版より翻訳出版されていることをつけくわえておきましょう。

また面談の前後ともに、2003年にVORCで公開された、hally氏による元コモドール・インターナショナル社長補佐マイケル・トムチュク氏(本記事ではMiachael Tomczykと表記)へのメール・インタヴュー「1980年代のコモドールと日本」を参考にさせていただきました。

コモドール64の奏でる音楽、そこに搭載されたSIDチップを通じてコモドールの存在を知った、遅れてきたコモドール・ビギナー Commodore Newbie である私の覚束ない言葉にたいして、家田氏とN氏には始終丁寧に応えていただきました。多大なるご厚意とご寛容にただ、ただ感謝するばかりです。

この記事が「日本におけるコモドール」の記録の一助となることを望みます。

名著『コモドール64 ユーザーズガイド』

家田氏はVIC-1001(海外ではVIC-20として発売。コモドール・ジャパン副社長であった東海太郎氏による命名)開発直前、コモドール・ジャパンに入社し、日本語版コモドール64に付属したユーザーズ・マニュアル(2011deko氏による今日の一献 「ワタシハ アナタノ ヒショデス ナニヲシマスカ」 その1参照)を独学で書きあげたそうです。表紙から察するに、Commodore 64 User’s Guideが元になっていると推測します。氏は翻訳作業と日本語版コモドール64のための大々的増補を並行して行ない、結果、総頁数は300を超えています。発行部数は3000部程度だったというのだから驚きです。
アミガ時代に至るまで、コモドール・ジャパンの発売したソフトウェア・マニュアル、ハードウェア・マニュアルは氏の改訂・執筆によるものとのことでした。特に、VIC-1001、コモドール64のプリンタ、フロッピー・ディクスドライブなどの周辺機器のマニュアルは、英文マニュアルも含めて、日本での開発ということでした。
VIC-1001は、日本の発売が米国に先駆けましたこともあり、米国でのマニュアルはまだなく、コモドール・ジャパンの東海太郎副社長の執筆だったと語られました。家田氏は、コモドール・ジャパンのマニュアル制作を担当すべく、百科事典の編集エージェントから転職してきたそうです。

『コモドール64 ユーザーズガイド』 表表紙 
◎全編家田氏の執筆になるという

『コモドール64 ユーザーズガイド』 裏表紙
◎発売元のホーム・コンピュータ株式会社は、コモドール・ジャパン営業本部と同住所

コモドール・ジャパン社内でも、N氏も含む、新入社員にとって家田氏の書かれた「ユーザーズマニュアル」はまず最初に読まなければならない必携資料に位置づけられていたようです。日本語で書かれたコモドール64に関する著作として、単純に分量だけで考えても唯一無二です。惜しむらくは、コモドール64が日本では十分なユーザーを獲得することができず、その内容が広く知られないことでした。
家田氏からその場でお借りしたマニュアルにはいくつも、発行後に見つかった誤字脱字やプログラム・ミスを訂正するための赤ペンが随所に見られ、プロフェッショナルとしての執念と仕事の対象への愛情を感じずにはいられませんでした。

幻の日英デュアルROM

日本語版コモドール64では、家田氏の提案に従って、それまでの日本語版PET/CBMのカタカナがアイウエオ順のコードになっていなかったのを改めて、通常のJIS8ビットコードに準拠したものに改めていました。また、PET/CBMからのグラフィック・キャラクタをキーボード上で規則的な配列に合わせるように改定されていました。英語圏でコモドール64が爆発的なヒットとなり、多くのゲームが輸入されるようになったときに、グラフィック・キャラクタが日英で異なるため、画面が文字化け状態になってしまう現象が起きました。このため、日本語版コモドールにはROMを2つ搭載し、ディップ・スウィッチで日本語モードと英語モードを切り替え可能にする計画もあったそうです。しかし、これが叶うことはありませんでした。かなり完成形に近い現在のコモドール64のエミュレータも、この「日本語版コモドール64」を再現するには至っていません。

家田氏はさらに面白いことを付け加えてくれました。

「1541フロッピー・ディスク・ドライブに同梱していたテスト/デモ・ディスクも僕はつくっていて、そのなかには、ピンク色の髪の女の子のもあって、何ていう名前だったか、ピンキー……」
「ミンキーモモ?」
「そう、ミンキーモモのデモなんかもあったんです」

葦プロダクションによる魔法少女アニメ『魔法のプリンセス ミンキーモモ』は、1982年に最初のテレビ・シリーズが放映を開始しています。少年少女(!)の関心を惹くため、同時代のカルチャーのなかから、ミンキーモモが選ばれたのでしょう。テスト/デモ・ディスクを通じてミンキー・モモが海外に知られたかどうか調べたが分からなかったと家田氏は語っておられました。興味のあるところです。

「第7章 サウンド/ミュージック機能を使う」

「第8章 シンセサイザーをさらに使いこなそう」
◎マニュアルの時点で既にMOS Technology SIDはシンセサイザーとして把握されている

コモドールの設計者/デザイナーたち

コモドール社製品の製作体制は、アメリカ本国の人員ですべてがつくられ、日本ではその完成品をもとに日本国内のチームで日本語版がつくられ……というようなものであったわけではありません。コモドール・ジャパンの副社長、東海太郎氏やエンジニアのYash Terakura氏はその名が今もなおアメリカの技術者たちの間で記憶されるほどに、1970年代後期からアメリカと日本を行き来しつつ次製品の開発に取り組んでいました。

N氏によると、コモドール64は多い時でアジア圏で月産24万台以上。一つの工場での生産は5万台が限界でした。限界の大きな要因が金型です。開発陣は製品検査等のために、米国と香港の工場を飛び回っていました。コモドール・ジャパンの人員は多い時で、東京本社に80名(内、開発設計部30名)、関連工場を含めると200名だったと言います。

それでは日本から海外出張者がいただけなのでしょうか? 筺体設計や機構設計を担当されていたN氏はこのあたりの事情を明かしてくれました。

「アメリカには意匠設計できるひとたちはいたけど、詳細設計できるひとたちがいなかった。Yash Terakuraさんたちはアメリカに行ってたけど、(筺体設計に関しては)それじゃ効率が悪いというので、アメリカらIra Velinskyという意匠設計者が日本にやってきて、私たちエンジニアのチームと一緒に仕事をしていました」

Ira Velinskyは、コモドール、アタリ時代双方にわたって、Tramielのもとで設計者として働いていました。

彼はMAX Machine(コモドール64のゲーム機バージョン)のケースをデザインしたデザイナーで、Jack Tramielがドイツのポルシェ社にデザインさせていたCBM-IIが機構上の問題があり、かつ高価なものになってしまったのでキャンセルしたとき、代わりのデザインをしたボストンのデザイナーで、その後コモドールに入社した人でした。東京オフィスでは仲間に、ポルシェがデザインをしくじり、彼がそれを引き継いだエピソードを東京オフィスで聴かせていたそうですが、N氏らも当時は「まさかポルシェがコモドール製品のデザインをしているなんて」と半信半疑だったそうです。
Ira Velinskyは、コモドール64の後継機種であるTEDでは、デザイン上の理由でジョイスティックのコネクタの形状まで変えさせたというエピソードも持っているようです。

ハードワーカーであったVelinskyは、飛行機で移動中、心臓発作で亡くなっています。このことはCommodore Plus/4 Worldで同じ設計者仲間のBil Herdも回想しています。

物議を醸した筐体設計は、Plus/4の筐体も設計も手がけたIra Velinskyによって編み出されたものである。80年代中期IraはAtariに移り、さらにSTとXEの設計者となった。

Bil Herdによれば、
「Plus/4の設計は、東京の事務所で仕事をしていたIra Velinskyという名の男によるものだった。コモドール社に来る前には、DEC Rainbowの筐体設計を手がけたことのある人物だった。不幸にもIraは数年後、CESショーの帰路の途中逝ってしまった」。
http://plus4world.powweb.com/hardware/390002

コモドール雑誌事情

多くのホーム・コンピュータあるいはPCの例に漏れず、コモドール社の製品に関しても多数の雑誌が刊行されました。家田氏は持参した鞄のなかから、おもむろにVIC-1001とコモドール64を扱った雑誌を何冊か取りだし、見せて下さいました。当時はアメリカのセブンイレブンに立ち寄ればこんな雑誌がすぐ近く目に入るところにあったんです――と、コンピュータ雑誌が気安く購入できる環境について、N氏は説明してくれました。

家田氏持参になる雑誌は『The Transactor Magazine』(以下、『Transactor』と呼称)と『VIC! with Commodore 64』の二点でした(前者については、写真に登場しない号もあります)。

『The Transactor Magazine』Vol.5, Issue 01
◎特集「Sound and Graphics」

『VIC! with Commodore 64』 Vol.11
◎特集「ひとめでわかるコモドール64の全貌」

雑誌を手に取り、すぐ気づいたのが、『Transactor』には「DTMの手引」に相当する特集が存在したことです。フロントエンドの存在するツールの登場以前に、BASICによる音楽自主制作のための案内者がいたのです。High Voltage SID Collectionに少なからず、BASICによって制作された楽曲が登録されている点を私たちは見逃してはなりません。

SIDに関する仕様は、この雑誌ではPaul Higginbottomという方が主に執筆しているのですが(例えばVol.4, Issue 02掲載の”Making Friends With Sid – introduction to making musing with the C64 sound chip”参照。因みにこの号の表紙には「Special: Commodore 64 SID Sound Unleashed!」の文字が印字されています)。彼のプログラムしたバッハのPrelude in C Majorを、現在私たちは聴くことができます。

『Transactor』は現在、archive.orgで読むことができます

『VIC! with Commodore 64』 Vol.11
◎読者投稿プログラムコーナーより

また、日本で刊行されたコモドール・ジャパンの販促誌『VIC!』のコモドール64特集号、『VIC! with Commodore 64』を眺めて驚いたのは、電波新聞社の刊行していた『マイコンBASICマガジン』(通称『ベーマガ』)のように、読者投稿プログラム(当然こちらはBASICといえども、Commodore BASIC)コーナーが設けられていたことです。『ベーマガ』が音楽プログラミング、いわゆる打ち込みの発表の場の先駆でもあったように(WizardOfPSG氏による「俺とChiptuneに関する考察的駄文」参照)、『VIC! with Commodore 64』でもBASICで奏でる音楽にも重点が置かれていたと確認できました。これは、あるいはHigh Voltage SID Collectionのクルーどころか、現在の海外のコモドール・ユーザー、ファンにも知られていない事実でしょう。

『VIC! with Commodore 64』に投稿されていたプログラムの内、編集部の手にならないものがどの程度だったのでしょうか。

『VIC! with Commodore 64』 Vol.11
◎巻末広告「BASIC is Best Communication.」

コモドール・ジャパンとHAL研究所

1970年代後期より、ホームコンピュータとアーケードは同時代において、幾度も革新を繰り返してきました。試みに指標としての年号をしめすと、1977年のコモドールPET発売、1978年のタイトー・スペースインベーダーが稼働。そしてここには当然、コンソール(家庭用ゲーム機)も入ってこなければなりません。

三者は無関係だったわけではありません。人気のアーケード・タイトルは、同時代のホームコンピュータとコンソールに、移殖されました。ハードウェアのアドヴァンテージはいつも明らかに前者にあったわけで、移殖のプロセスはいつの時代も、必然的に「挑戦」となりました。8-bit機の領野に限定した場合、日本に住む私たちにとって、移殖されたアーケードとは、専ら任天堂のファミリーコンピュータ(ファミコン)で遭遇を果たしてきたと、言えるでしょう。

しかし世界に視野をひろげると、アーケードはより多機種に「拡張」されていきたことを確認できます。コモドール64、ATARI-8bit、ZX Spectrum、Amstrad CPC等で発売されたアーケード・タイトルの移殖の量と移殖期間の途轍もない短さは、それらが消費者にとって、確実に購買の契機として機能していたことを裏付けています。

日本でこうした移殖に早くから携わってきた開発会社として真っ先にあげなければいけないのが、HAL研究所です。現・任天堂代表(2002年~)である岩田聡氏が最初に入社(1992年には社長に就任)した会社でもあります。私もコモドール64のゲーム開発会社のなかに「HAL Laboratory」の名前を見た時は驚いたものです。

先のインタヴューにおいて、hally氏はHAL研究所の移殖水準が世界的にみて突出していた点を示唆しています。

▼ HAL研究所について、何かご存知ないでしょうか。VIC-1001初期のゲームカートリッジを多数開発していたメーカーです (少なくとも「ジュピター・ランダー」「スター・バトル」「ポーカー」「ロード・レース」「マネー・ウォーズ」は確実で、「ジェリー・モンスター」「エイリアン」「モール・アタック」「スロット」などもそうではないかと推測しています)。HAL研究所はいまでこそ任天堂と強力に結びついている人気ゲーム会社ですが、当時はまだとても若く小さく、VIC-1001が発表されるわずか7ヶ月前に、社員数人でスタートを切ったばかりでした。コモドールはなぜこの会社に重要な役割を与えたのでしょうか。
http://www.vorc.org/text/interview/ex/mtomczyk_j.html

hally氏が脚注でも触れている、HAL研究所が開発したJelly Monsters、実質的にはナムコ「パックマン」のVIC-20版の映像です。

HAL研究所についてお二人に尋ねたところ、コモドール・ジャパンと密接な関わりがあったのは、CBMまで(PET/CBMあるいはCBM-II、VIC-1001発売前まで)だったようです(Bagnallの著書にはコモドール・ジャパンのエンジニアYash Terakura氏と岩田氏のツーショットが掲載されています)。Terakura氏がTramielの命でPETの次のモデル(Colour PET)を開発中、PETを所有する若者が集められ、突如東京オフィスが将来のエンジニアのためのインターンの場(あるいは溜まり場)として機能することになりました。そのなかに東京工業大学工学部在籍中の岩田氏はもちろん、西和彦氏の姿もありました。このグループのメンバーの内、5名がHAL研究所の創立者になります。

コモドール・ジャパンのオフィスでよくたむろしていた、PET 2001を所有する日本人青年たちのグループから、エンジニア(引用者註――Yash Terakura氏)は助力を受けていた。「高校や大学に通っているそれらの青年全員がPETの所有者だったんだ」と彼は語る。「一台$3000くらいの、かなり高価なものだったけど、みんな持っていた」。
Brian Bagnall: Commodore: A Company on the Edge (2nd ed.), Winnipeg Manitoba: Variant Press, 2010, p. 225.

質問の反復になりますが、若い社員で創業したばかりのHAL研究所がスタートの時点で卓越した開発力を持つことができたのはなぜでしょうか。これはAndy Finkel、Michael Tomczyk、Neil Harrisら本社の人間も認識の共有する部分だった模様です。この原因のひとつは、コモドール・ジャパンの協力もあり、通常のVIC-1001開発環境以上のものが用意できたことが大きかったからではないしょうか。Bagnallの著書から該当部分をやや長くなりますが、引用してみます。

プログラマたちは、1980年5月22日に日本で最初にリリースされた、『パックマン』というゲームに特に惹きつけられた。(…)「どうしたのかというと、日本人プログラマのグループは、自分たちのコンピュータで『パックマン』を遊べないことに、物凄く欲求不満を感じていたんだ」とMichael Tomczykは回想する。

プログラマの一人ひとりが、『パックマン』への並々ならぬ注目とともに、VIC-1001用のゲームのアーケード版を開発すること躍起になっていた。「私たちは毎晩、真夜中まで、あるいは日を跨いでまで作業していたんです」と岩田[聡]は語る。

VIC-1001は優れた開発システムではなかったが、プログラマたちは、コーディングとコンパイルを行い、VIC-1001でそのソフトウェアを実行するために、よりパワフルなPETコンピュータを使用することができた。「コモドールの他に自作のソフトウェアを開発することができる人並みのコンピュータ・ファンにとっては実に便利なものを、彼らはまずたくさん持っていた」と[Andy]Finkelは回想する。「彼らはまず、開発に良いハードディスク・ドライブを手に入れた。何より彼らには増設メモリがあった」。

HALのプログラマがVIC-1001の全てのヴァージョンを所有するようトニー東海は手配した。すると彼らは東京秋葉原の賃貸アパートにそれらを持ち込み、一晩中ゲームをプログラムすることができるようになった。彼ら開発者たちは、増設されたPETのメモリから直にロードが行えるように、PETコンピュータにVIC-20用のカートリッジ・スロットを接続するインターフェースを用いた。ゲームのコーディングが完了すると、彼らはそのコードをROMチップに焼き、チップをカートリッジに入れた。「連中は『パックマン』をカートリッジで動作するVIC-20のゲームに変えてしまったんだ」とTomczykは語る。

HAL研究所の若いプログラマは、当時最も人気のあったAtariやナムコやタイトーのアーケード・ゲーム――『スペースインベーダー』、『Avalanche』、『ギャラクシアン』、『Night Driver』、『ラリーX』、『Lunar Lander』――の移植作の制作もまた行った。

HAL研究所はVIC-20のグラフィックとサウンドを使い倒し、オリジナルのゲームの正確な複製を作り出してみせた。コモドール社のソフトウェア開発者だったNeil Harrisはこのように驚いてみせる。「彼ら日本人は、アーケード・ゲームのほぼ完璧なクローンの制作をやってのけたんだ」。
Brian Bagnall: Commodore: A Company on the Edge (2nd ed.), Winnipeg Manitoba: Variant Press, 2010, p. 278.

1980年のHAL研究所創業後は、コモドール・ジャパンとの関係性は薄れていったそうです。お二人からしても、「優れたプログラマーが存在した」という認識はあったようで、逆にコモドール・ジャパンではプログラマーの不足に悩まされていた点をお聞きしました。

家田氏はまた、岩田聡氏が6502のマニュアルを翻訳していたはず、とふとつぶやかれました。これは、上記の事実を再考する上で、大変重要な手がかりです。6502の通称で知られるMOS Technology 6502は、Apple II、PET、VIC-20、コモドール64といったホームコンピュータのみならず、ファミコンやPCエンジンにも互換製品が搭載された、Z80と並ぶ8-bitの「名機」の数々を支えたCPUです。

彼が翻訳した「6502のマニュアル」とは何だったのでしょうか。1976年にMOS Technology社が開発した6502に基づいたシングルボード・コンピュータ(ワンボードマイコン)、KIM-1に関する著作であった可能性も捨てきれませんが、あるいはSynertek社のSY6500/MCS6500 Microcomputer Family Programming Manualのようなデータシートであったかもしれません。

東海太郎 Tony Tokai氏 について

コモドール・ジャパン副社長とアタリ・ジャパン社長を務められた東海太郎 Tony Tokai氏ですが、実は現在どこでどうされているのか、はっきりとした情報を少なくともウェブ上ではつかむことができません。

お二人に尋ねてみたところ、やはり家田氏、N氏ともにご存知ではありませんでした。Bagnallの著書も、コモドール・ジャパン史についてはYash Terakura氏とのインタヴューを参照しつつ記述をすすめていますが、一方で東海氏とコンタクトを得られた形跡はありません。N氏は一点、アタリ・ジャパン代表就任後、東海氏が交通事故に遭われたことを話してくれました。

彼の消息をご存知の方は、情報をお寄せいただければ幸いです。

もっと、コモドールを

コモドール・ジャパンがアメリカのコモドール社で開発されたコモドールの単なる販売代理店であったように想像しているとすれば、私たちは今一度、その認識をあらためる必要があります。開発工場が世界中にあったばかりでなく、開発チームがれっきとした国際性を備えていたのですから。何よりも、VIC-1001以来発売された機種には、日米双方で「日本(語)のコモドール」を根付かせようとしか痕跡がなまなましくも刻まれています。
C128開発時米国と香港を飛び回ることになったN氏(MOS Technology社の工場を訪れたこともあるとか)は、しかし同時に、コモドール・ジャパンが、アメリカ本社からは――例えば香港に中継するための――製造拠点のようにしか捉えられてなかったのではないか、とある時感じたと、ある特異な「パララックス」についてお話いただきました。

日本語版コモドール64は「爆発的ヒット」には至りませんでしたが、はたして経営陣は世界戦略のなかで日本におけるコモドール製品の販売をいかに位置づけていたか? そしてそれはいかに修正されていったか? hally氏のTomczykへのインタヴューには本社からのひとつの回答が示されているかと思いますが、私はN氏と家田氏にお話をうかがいながら、もっと現場でお仕事をされていた方の言葉も知りたいと切に感じました。

家田氏とN氏には突然の面談に応じてくださったことはもちろん、今日までコモドールへの関わりを保ちつづけていらっしゃっていることにつきまして、御礼申し上げます。大げさに聞こえるかもしれませんが、「先人」がみずからの仕事について忘れずにいること、それは後を追う者にとっては、かけがえのない「贈物」なのです。

また面談にのぞむにあたって、初対面であるにもかかわらず、あたたかい励ましと助言をくださったhally、tappy、加山。の三氏に深く感謝を申し上げます。

文責: 赤帯 / Takashi Kawano

注記

・この記事は予告なく訂正・追記を行うことがあります。

・2012年11月19日 家田氏に記事を確認していただき、全文にわたって訂正と、重要な事実を含む文章の追加を行いました。日本で開発されたマニュアルの種類、デュアルROM、Ira Velinskyの経歴に関する加筆も氏によるものです。記して御礼申し上げます。

・2012年11月21日 N氏による指摘個所を訂正しました(コモドール・ジャパン東京本社の社員数、海外出張がC64ではなくC128開発時であったこと等)。

Main References

・Brian Bagnall. (2010). Commodore: A Company on the Edge: Variant Press

・hally. (2003). 「1980年代のコモドールと日本――マイケル・トムチュク氏(元コモドール・インターナショナル社長補佐)オンライン インタビュー」
http://www.vorc.org/text/interview/ex/mtomczyk_j.html

・hally. (2003). “What was Japan for Commodore?” – An Online Interview with Michael Tomczyk (former Assistant to the President of Commodore International)
http://www.vorc.org/text/interview/ex/mtomczyk_e.html

・2011deko. (2011). 今日の一献 「ワタシハ アナタノ ヒショデス ナニヲシマスカ」 その1~3(でこちんの 『いつか ありしこと。』)
http://2011deko.blog.fc2.com/blog-entry-74.html
http://2011deko.blog.fc2.com/blog-entry-75.html
http://2011deko.blog.fc2.com/blog-entry-76.html

・WizardOfPSG. (2009). 俺とChiptune(超兄記。)
http://d.hatena.ne.jp/WizardOfPSG/20091016#p2

6 Comments

Filed under c64

6 responses to “聴き取りコモドール・ジャパン史

  1. Pingback: 2012年11月11日(日)の日常 - okaz::だめにっき

  2. 素晴らしいアーティクルでした。元コモドールの方にインタビューする機会を得られたとはうらやましい限りです。
    ”On the Edge…”のレビューを書いた(http://arap.way-nifty.com/siblog/2008/07/on_the_edge_the_62d5.html)後、Yash Terakura氏の消息を追っていたら、ご本人からコメントをいただきました(http://arap.way-nifty.com/siblog/2010/02/yash-terakura-d.html)。いつでもご連絡ください、とのことでしたが、コンタクト先も判らずじまいでしたが。

    • arapさん、コメントありがとうございます。
      面談ならびに記事の作成にあたって、ご紹介してくださったarapさんの文章も拝読しました。ですので、閲覧いただいたことを大変嬉しく思います。

      自分でも信じられないような一夜の出来事でした。

      現在のYash Terakura氏についてはお二方に聞けずじまいでした。
      該当記事のご本人のコメントには吃驚しました。今もPCを使っていらっしゃるのでしょうから、またどこかでお声を聞けると良いなと、自分も願っています。

  3. yash terakura

    今日もとコモドール時代の友人から東海氏が他界された旨知りました。。
    残念です。。私も年に数回日本を訪れてますが。。元コモドール関係の人とはほとんど連絡をとってません。数人とは日本アメリカで連絡を取り合っていますが。。ジャックが他界そして東海氏。。。
    時の流れを感じます。
    YashTerakura..

    • Yash Terakuraさん、コメントありがとうございます。
      私自身はコモドールを知らずに成長し、偶然にもお二人と面会する機会を得て、得難い知見に触れることができました。
      いつかは東海太郎氏にも、あらためて当時のことを語っていただけたならどんなに素晴らしいだろう、とずっと夢見るばかりでした。トラミエル氏が亡くなられたばかりだというのに…少なからぬ動揺を覚えます…。
      Terakuraさんもきっと頷いてくださると思うのですが、コモドールのマシンは、大きな愛情をもって世界的に多くの人たちに大事にされています。
      深い懐かしさをもって振り返られると同時に、今なお現役であります。コモドール64という共通項を通じて、多くの素敵な人たちに出会うことができました。東海氏に感謝の言葉をおくりたいです。

      東海氏の他界を報せて下さり、ありがとうございます。

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